◆前回の記事では、一陽来復の運気に乗って開運するための心構えとして、「仕方がない。よしっ!やり直しだ−メイファーツ」という積極的な決意が必要ですと書きました。しかしまた、「仕方がない。よしっ!やり直しだ−メイファーツ」という積極的な決意だけで道が開けるワケで、それに伴うもう一つの心構えも必要です。今回の記事は、“二つ目の心構え”がお題です。
◆「やり直しだ」という気迫に加えて必要なのは、立ち返るところを見つけることです。それについては、安岡正篤師の著書『人物を修める』で、次のように書かれています。
美しい立派な花を咲かそう、実を結ばそうと思えば、まず枝葉末節を整理し、根本を良くすること、すなわち「君子は本立って道生ず」の一語に尽きるのです。この非人間的な文明を真に人間味溢れるものにするためには、やっぱり本にかえって、久しく忘れられていた人間自然の本性と美徳を回復するよりほかに道はありません。
(・・・中略・・・)
そしてそれにはまず歴史を学ぶことが一番であります。歴史の中に蔵(かく)されている人間の美徳の優れた文献、優れた人物を発掘して、われわれ自身の心田を肥やさなければ、人間としての進歩はいうまでもなく、事業の発展も、文明の創造もできません。大いなる未来を開くには古典にかえる必要があります。それに気づかず、追い立てられるままにこの現代文明に忙殺されるというのは、まことに危険なことであります。
◆「君子は本立って道生ず」という言葉は『論語』の学而編第2章に記されているもので、金谷治版『論語』(岩波文庫)では「君子は根本のことに努力する、根本が定まってはじめて[進むべき]道もはっきりする。孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう」と訳されています。詳細は、ワタクシのブログ『家族で読む論語』‐「仁の本とは、花が咲くことに通じる―『論語』学而第一(第2章) 」でも書いておりますで、よろしければご覧ください。
◆それでは、人間自然の本性と美徳を回復するための根本とは何か、これが肝心なところですね。安岡師は「歴史を学ぶことが一番であります」と書かれています。人間の美徳に優れた文献や、優れた人物を歴史の中から発掘することが私たち自身の心を豊にする糧となり、人間としての進歩だけではなく、事業の発展や文明を創造する礎となる・・・・・・それ故に「古典にかえる必要があります」と述べておられます。
◆「古典にかえる必要があります」って書かれているだけで、「ムリ!」って感じで引いてしまう人は少なくないと思います。学校での教育科目として教わる「古典」にアレルギーを感じる方も少なからずいらっしゃるかと思いますが、教科として「古典」というイメージを取り払わなければ、話は先に進みません。
◆「古典」というものに苦手意識や嫌悪感を抱かなくても、「古典」を題材にしたガイドブックや解説書といえる作品が数多く出版されています。それを購入するなり、図書館で借りるなりして読み比べていると、面白いと思える作品とめぐり会うことが必ずあるものです。安岡正篤師の作品にも、そういった解説書的な意味合いが強くあります。
◆では、どの「古典」のガイドブックや解説書を読めば良いのかということは改めて紹介するとして、「古典にかえる」ことのメリットについて考えたいと思います。
◆今の時代に「古典」という形で受け継がれた良書に触れて、「歴史の中に蔵(かく)されている人間の美徳」や「優れた人物」を発掘することが、「久しく忘れられていた人間自然の本性と美徳を回復する」と書かれています。
◆この部分をワタクシなりに解釈すると、自分自身の立ち位置を見直すことだと思うのです。現代人の一生は学業に始まり、社会人となって仕事や家事、さらには子育てや介護などに忙殺されて、追い立てられるように年を重ねます。そういった中で自分自身の在りかたというものが変化して、本来立つべき位置からずれたり方向性を見失ったりしてしまいます。
◆人は生活する場面場面で、多くの場合は自分自身の考えに基づいて、あるいは身近な人の意見を聞いて意思決定をして実行に移します。中には考えずに行動する人もいますが、いかなる場合も結果というものが伴います。人間は欲を持って生きるものですから、そこには利害という対人関係が伴います。意思決定と行動を重ねる中で利害の摩擦が起こり、結果にズレが出て、そこに迷いが生じます。ワタクシが生業としている占い師稼業などは、ここに存在価値があるワケですが。
◆しかし、身近な人に依存したり占いに頼ったりしなくても、自分自身の立ち位置、ポジションを見直すための手助けとして「古典」があるということなのでしょう。自分自身の立ち位置、ポジションを見直すための手段として、「古典」以外のものを挙げると「易」や「タロット」なども考えられます。ただ、「易」にしろ「タロット」にしろ、その本質というものは「古典」に通じています。付け加えて言うと、「古典」に通じていることが、「易」や「タロット」の解釈にも役立つのです。
◆「易」というのは『易経』ですから、それ自体も「古典」の一つではあるのですが、『易経』の本質とするものが他の「古典」に通じているという意味です。この通じているという意味は、「易の三義」とことばで表すことができます。
◆「易の三義」とは、一に易簡(いかん)、二に変易(えんえき)、三に不易(ふえき)を示しています。
第一義の易簡(いかん)とは、分かり易く従いやすく簡単明瞭であることです。「易」は陰陽をもとにして八卦、六十四卦、三百八十四爻と広がりを持つものですが、その根本は陰と陽の組み合わせであって、易しく簡潔なものであり、それで天地宇宙の法則を指し示すものであるということです。
第二義の変易(えんえき)とは、宇宙の万物、森羅万象はすべて活動し変化するものであるということです。
第三義の不易(ふえき)とは、変化するものの中に不変の法則が在るということです。水が天地を循環し、季節も移り変りながら春夏秋冬というサイクルを繰り返し、太陽を中心とする惑星も万古に渡って不変の運動を続けていて、変(易)わらないというものです。
◆「歴史は繰り返す」という言葉がありますが、人類の歴史と進歩も「易の三義」から外れることなく流れており、この先の流れや在り方を問う上で、「古典にかえる必要があります」と述べられているのだと思うのです。「古典にかえる」ことで、自分自身の立ち位置が明確になると。
◆これらのことをまとめると、立ち位置を見直すというのは、在るべきところに視点を置いて行動するということなのだと考えます。その在るべきところというのは、「易の三義」という法則に逆らわない生き方であり、「古典」に綴られている「人間自然の本性と美徳」に沿った判断と歩みなのでしょう。
◆視点が定まれば「本立って道生ず」であり、方向性が定まって「没法子―メイファーツ:よしっ!やり直しだ」という気持ちが湧きあがって来て、気迫ある行動が取れるようになります。「もうダメだ!」と思ってしまうのと、「没法子―メイファーツ:よしっ!やり直しだ」という気持ちを持つのとでは、180度違った生き方になります。如何なる状況に追い込まれても「没法子―メイファーツ:よしっ!やり直しだ」という気持ちを持つために「古典」という原点に立ち返ること、それは「易」の真髄でもあるのだと想っています。
占い館ルネッサンス・右京
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