論語・省の真意について(その2)‐安岡正篤『論語に学ぶ』より‐☆[第5回]
◎前回に続いて、論語の[学而編第一の四]にある・・・・・・
曾子曰く、吾れ日に吾が身を三省す。人の為めに謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。
ソウシ イワく、ワれヒにワがミをサンセイす。ヒトのタめにハカりてチュウならざるか、ホウユウとマジわりてシンならざるか、ナラわざるをツタうるか。
曾子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、與(与)朋友交言而不信乎、傳(伝)不習乎。
・・・・・・という言葉を題材に取上げて話を進めます。
◎「吾日三省吾身」の読み方と解釈については、前回の記字に書いておりますので、今回の記事では、「省」という字をもう少し発展させた内容について書いておきます。安岡先生は、「省」という字について、つぎのように書かれています。
「この省の字をつくづく味わってみると、かえりみてはぶくことの一番根源的なものは自己であるから、人間の存在そのもの、その生活、また従って政治にしろ、道徳にしろ、人間に関する一切はこの一〈省〉字に尽きると申してよろしい。」
・・・・・・と。そして植木の栽培を例にとって、良い木を栽培する五原則に話が及び、枝葉の茂りを省する、すなわちコントロールすることが大切なのですが、それは簡単にできるものではなく、「智慧と経験とが一致して初めて立派にできることである。」と述べられています。植木の剪定方法を知ったとしても、木は一本一本が違うわけですから、どれも同じという具合には行きません。これは、論語の[公冶長第五の二十二]に書かれている、「之を裁する所以(ユエン)を知らず」に通じることですね。
◎「之を裁する所以(ユエン)を知らず」というのは、裁縫の心得はあっても、それに使う生地のよさを引き出す裁ち方、要領までは心得ていないという意味でしょう。これは、色々なことに当てはまりますね。例えば、同じレシピで調理をしても、出来上がった料理の味は異なります。あるいは、ゴルフや釣の道具を同じにして、同じ環境で学んだとしても、実際にやってみると釣果やスコアまでが同じにはなりません。同様の例を挙げると、キリが無いくらいですね。この違いを、個々人の素質や才能の差として片付けてしまうのは簡単ですが、「智慧と経験」の違いで補えることでもあるのですね。学んだ中から生まれる疑問や推論が「智慧」であり、それを検証したり解き明かしたりすることが「経験」であって、この二つの行為が「智慧と経験を一致」させることなのでしょう。そして、どの分野においても、これを心得ている人だけが“本物”になるんでしょうね。
◎「三省」という言葉は、自身を省みることによって「智慧と経験を一致」させることを示しているのでしょう。言い方を替えれば、「素質や才能」を持つ者であっても、「智慧と経験を一致」させることができなければ、「之を裁する所以(ユエン)を知らず」ということになるのですね。これは学力や技能にかぎったことではなく、「人格、その活動である道徳も同じことが言える」と、安岡先生は書かれています。この「智慧と経験を一致」させることこそが、[学而編第一]の冒頭にある「学びて之を時習す」の「時習」の言わんとするところなのですね。「学」を「知識や記憶という学力や技能」とするならば、それを生かすための「智慧と経験を一致」させることが「習」の意味するところなのです。
◎このように考えると、今の教育は。「学」に偏重していて、「習」に欠けているように感じます。そして、「学」に長けた者が試験にパスして大企業や国家の中枢を担って、ニッポンを動かすワケですね。こういったことにも目を向けながらでなければ、教育改革というのも“絵に描いた餅”に終わるのでしょうね。それを託されている人たちが、どれだけ「省」することをしているのか気になるところです。「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」という事態だけは、想像したくないですね。
・・・・・・最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。《感謝》
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論語・省の真意について(その1)‐安岡正篤『論語に学ぶ』より‐☆[第4回]
◎論語の学而編の四には・・・・・・
曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省みる。人の為めに謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。
ソウシ イワく、ワれヒにミたびワがミをカエリミる。ヒトのタめにハカりてチュウならざるか、ホウユウとマジわりてシンならざるか、ナラわざるをツタうるか。
曾子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、與(与)朋友交言而不信乎、傳(伝)不習乎。
・・・・・・という言葉が書かれています。上記の読み下し文は、金谷治先生(岩波文庫)のものです。
◎論語の解釈には多様なものがあり、他の著名な訳者の読み下し文と比較すると、それぞれが微妙に違っています。一つひとつに納得できる部分もあるのですが、意味の伝わりにくいところもありまして、これらを読み比べて見るだけでも興味の尽きないものがあります。しかし、ここでは安岡先生が注目されている「三省」の「省」についてスポットを当ててみることにして、学而編四の全体的な鑑賞は別の機会に書くことにします。
◎さて、冒頭の「学而編四」の「三省」の解釈にもさまざまなものがありまして、「三」を、「三たび(三度)」とか「三つ」とかというようように説明しています。しかし、このような限定的な意味に受け取ることには、今ひとつしっくりと来ないものを感じるのですね。「三省」の読みについて安岡先生は、「やはりここは音読して“さん”と読むべきです。三は三度と限ったことではない。常にとか、しばしばという意味です。」とし、この後に「ただし問題は三ではなくて省の字にある。」と書かれています。「三省」という部分は、「サンセイ」と熟語のように読むのが相応しいと述べておられるのですね。そして、この節で重要なのは、「三省」の「三」よりも「省」のほうにあるということですね。私のような凡庸にとっては、「三」の解釈にも興味があるのですが、テーマがボケてしまうので、「省」の解釈に絞ることにしましょう。
◎「三省」の「省」の読み下しは、「かえりみる」とされています。これは金谷治先生(岩波文庫)のものに限ったことではなく、他の先生の訳も多くが同様に書かれていまして、「省(かえり)みる」、「反省する」と解釈されています。しかし、「省」は「省エネルギー」の「省」でもあるワケですから、単に「省(かえり)み」たり「反省」したりするというだけでは無いということになるんですね。安岡先生は、「これを“かえりみる”と読んでおるが、これだけでは五十点。今一つは“はぶく”という意味がある。」と説明されています。
◎中国古代文学と漢字の研究で有名な白川静先生の『常用字解』によると、つぎのように書かれています。「金文字形は生の下に目をかく形で、音符は生(セイ)。のち生が少の形となる。」・・・(中略)・・・「生・少は本来は眉に飾りを加えた形ではではないかと思われる。目の呪力(まじないの力)を強めるために眉飾りをつけることが多いからである。その呪力のある目で巡察すること、見まわることを省という。」・・・・・・と。
◎また、「省」の熟語を調べてみると・・・・・・
・・・・・・などがあります。これらを見ても、「はぶくという意味がある」という安岡先生の言葉が、「三省」の説明として的を得たものであることを得心できるものですね。
◎ということから、「三省」の「省」を「省(かえり)みる」と読むことも「反省する」と解釈することにも、意味のズレがあることが明らかになりますね。「三たび吾が身を省る」と読むよりも、「三省する」と読むほうが、この文章のニュアンスを率直に伝えることができると思います。そして、その意味を「ことあるごとに(常に)確認して省察・省改する」と解釈することが正しいように思います。そして、“ことあるごと”というのは、“リアルタイム”に近い意味合いも持つ考えるべきでしょう。
◎これらの言葉は、孔子の教えに基づいた曾子の言行として記されたものです。曾子は字(あざな)を子與(シヨ)と呼ばれ、孔子の晩年に弟子になった人物ですが、弟子の中でも優秀だったようです。それほどの人物ですから、自身の言行について「省みる(後で思い出す)」だけの凡庸な人物ではないでしょう。人と接して相談を受けているときも、友人と意見を交わしているときも、常(リアルタイム)に自身の言行をチェックしているはずです。そしてなお、それを反芻(ハンスウ)するように、繰り返してチェックを繰り返しながら接してているのです。
◎そして、自身の言行に行き過ぎは無いか、あるいは足りないところが無いだろうかというように、過不足を確認する作業を繰り返すのだろうと考えるのです。私たちが勉強や仕事の場においても、リアルタイムに過不足が確認できれば、効率よく進められるわけですから、曾子ほどの人物であれば、そういう能力も当然備わっているはずですし、多くの人間に備わっている能力でもあります。要はそれを自覚するか否かということが問題なのであって、この節のテーマもそこにあるのでしょう。
◎自分の発言や行動について、過不足をチェックする意識を持つか否かが大切なのであり、それを意識することが中庸を保つための心構えである・・・・・・というのが、この節のメッセージだといえます。こういうことを意識せずに、その時の気分にまかせたり、功名心や欲に囚われていては、適切な言葉も出てこなければ、責任ある行動もできないということですね。そして、当人は頑張った気になっていても空回りしているだけの、自己満足に終わってしまうのでしょう。
◎私は占いを職業としていますから、人様と話をすることが主なシゴトです。そういう意味で、この言葉は自身の指標であり、自身を測るための物差しでもあると考えています。占いというシゴトは、安きに流れようとすれば幾らでも流すことができるものですから、ツッカエ棒になるようなものが無ければ堕落するのみです。そういう占い師も、イヤと言うほど目にしたり聞き及んだりしています。そして、これは占い師に限らず、多くの人に当てはまることでもあるしょう。
◎この後に続く「不忠乎(忠ならざるか)」の“忠”、「不信乎(信ならざるか)」の“信”、そして「傳(伝)不習乎(習わざるを伝うるか)」の“習”についても、イロイロと書いておきたいことはあるのですが、何れかの機会に実現できればと思っています。それと、『論語に学ぶ』の「省の真意について」という一節には、「省」という字の意味に関連して、興味深い話が展開されるのですが、それも次回の記事で・・・・・・ということにさせて頂きます。最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。《感謝》
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