時の真意について‐『論語に学ぶ』より‐☆論語読みの論語知らず[第3回]
◎論語は学而編の・・・・・・
子曰く、学びて時に之を習う、亦た説ばしからず乎。
シ イワく、マナびてトキ(ココ)にコレをナラう、マたヨロコばしからずヤ。
子曰、学而時習之、不亦説乎。
・・・・・・という言葉から始まりますが、「学びて時に」というくだりを、「学んだことを時々思い出して復習する」と解釈するのが一般的ですね。これを英語で表すと、“sometimes”と同じになります。これに対して安岡先生は、「時々では意味がおかしい」と書かれています。
◎論語は孔子(紀元前551年‐紀元前479年)とその弟子たちの言行録をまとめたもので、彼の没後にまとめられているものです。そこに集められた言行録を編纂するという作業は、それを行うものにとっては、「学んだことを時々思い出して復習する」という作業に等しいかもしれません。しかし、「学而時習之」の「学」と「習」の関係は、学んだことを復習するというものだとは思えないのです。
◎貝原茂樹先生の訳(中公クラッシックス‐中央公論社)では、これを「学んで時(ここ)に習う」とあります。安岡先生は「学んで時之(これ)を習ふ」という解釈を評価したうえで、「学んで之を時習(じしゅう)す」と読まれています。この2つの訳のほうが、的を得ているように思います。「学而時習之」の「時」は、時の流れを刻んだ時々という意味ではなく、タイミングを見ながらという意味なんでしょうね。
◎学んだことを折にふれて思い出しながら習うことによって、それが「時習」から「時活(じかつ‐これを活かす)」というようなものに変わるのでしょう。「学」というものは、覚えるだけのものではなく、活かしてこそ意味のあるものだということが「学而時習之」という言葉に含まれていて、論語の冒頭に置かれているのですね。
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論語に学ぶ-論語読みの論語知らず[其の一]より☆第2回
◎論語は、綸語(リンゴ)、輪語(リンゴ)あるいは円珠経(エンシュキョウ・エンジュキョウ)とも呼ばれるそうです。綸という字は倫理の倫と同じであると、漢字の成り立ちと意味を解説する『釈名』という書籍にも書かれているようです。細い糸を組んで紐(ヒモ)にしたものを綸と呼び、ヒモが垂れるところから転じて天子の考えや詔(みことのり)を意味します。また、糸を組んで“まとめる”ところから、世を治める意味の“経綸(ケイリン)”という言葉もあります。これらの別名は、まとまりとかつながりを意味するもので、論語が世の中の人々につながりを作り、まとめるものであることを指し示す言葉なのですね。
◎また、円珠経の珠(たま)を鏡と対比させて、次のように説いています。「鏡はいくら大きくても一面しか照らさないが、珠(たま)は一寸四方の小さいものでも、上下四方を照らす」とあり、これは論語に親しむようになると、その意味がしみじみと感じられると述べてあります。私自身、この言葉の意味するところが少しだけ分かってきたような気もするのですが、あくまでも部分的なものであって、読み込むほどに論語の奥深さに引き込まれるのだろうと思います。
◎安岡先生は、これに続けてイデオロギーを話題に挙げて、論語との比較をされています。思想(イデオロギー)と哲学との在り方について書かれているわけですね。この部分には得心させられるのですが、ことイデオロギーということになると人それぞれに受け取り方が違いますし、感情的なものが入り込むこともありますから、ここには書きません。ただ、安岡先生の見解を、今の世界情勢が証明しているのは事実だと思います。そして、論語には、時代を越えた真理とも言うべきものがあることを再認識させられる文章でした。そして、真理とも言うべき普遍的なものが論語に込められているからこそ、2千数百年という時を経ても私たちの心を打つのでしょう。
◎さて、ここまでが「論語読みの論語知らず」と題した講演録の枕部分で、これより本題に入ります。論語は全部で1,520字の漢字で書かれており、他の書物と比べると格段に簡潔にまとめられています。論語の本として、アマゾン[Amazon.co.jp]で最も売れている金谷治訳注の岩波文庫版だと全部で400ページ程度ですから、読むだけであれば簡単にできるでしょう。しかし、論語は売れてはいても読了した人は少ないというのが実態ですよね。また、読了はしていても、とにかく読んだということであって、その奥深さを理解している人は少ないでしょう。
◎論語とは、その奥深さゆえに繰り返し読むことで、読み込むということによって理解が深まる本だと言えるでしょう。極端とも言えるほど簡潔に書かれた1,520字の文章ですから、いくら優秀な頭脳をもってしても一度で理解できるものではないのですね。能力とは別に、経験を要するものなのです。で、経験はともかく能力には??・・・・・・(私がコノ部類です)・・・・・・というのをサポートする意味で、ガイドブックのようなものが役立つのですね。
◎そのガイドブックの一つとして、安岡正篤先生の『論語に学ぶ』が役立つのです。これには、論語1,520字を読む上で役立つキーワードが取上げられて、それぞれに解説が加えられています。解説と書くほどの堅苦しさはなく、論語を読む“コツ”としたほうが良いでしょう。この本を含めて、様々なガイドブックを参照することによって読解力が養われて、論語を楽しめるようになるのだと思います。長くなりましたが、次回からは、この本の本題である“コツ”の部分で、印象に残ったことを書き留めて参ります。そうそう、次回からは手短に・・・・・・いや簡潔に書くことを心がけて参ります。
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清明・清明節‐二十四節気では4月(旧暦3月)の正節☆
◎清明(参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)は清明節とも呼ばれます。二十四節気(自然暦)の一つで、毎年4月5日頃が清明にあたります。4月5日頃ということで、日付が決まっていないのは、二十四節気というものが太陽黄経を基準にしており、春分の日にあたる春分点を0度として、そこから15度移動した時点を清明としているためです。つまり、15度という位置に到達したところが清明にあたるワケで、今年は4月5日の午後1時05分に到達します。
◎ちなみに、2006年は4月5日の午前7時15分で、2005年が4月5日の午前1時34分、3年前の2004年(平成16年)が4月4日の19時43分でした。で、4月6日に清明を迎えた年を調べてみると、ウ〜ンと遡って60年前の1947年(昭和22年)で、午前0時21分でした。それ以前には、4月6日が清明にあたっていた日が1943年、1939年、1935年、1931年、1927年、1923年、1918年、1915年というように3・4年に一度の周期でありました。逆にその時期には、4月4日の清明はなくて、どういうことが原因でそうなるのか興味を感じます。天文学に詳しい方に出逢った時に、ぜひ聞いてみたいですね。
◎清明とは、「清浄明潔」を略したものだそうで、草木に花が咲き始め、すべてのものに清らかで明るい気が満ち溢れるという意味です。陽気がますます強まって春を満喫できる時期ですから、人間も自ずとアクティブになりますよね。まあ、その反動からか、いわゆる「五月病」になる人もいますが、中味の伴わない過度な期待感というものが裏切られた結果で起こるのでしょう。清明の時期は、心身ともに軽くなる時期ですが、心身の健康バランスにも配慮したいものです。
◎清明と言えば、陰陽師の安倍清明公を連想しますが、この名前が二十四節気の清明に因んだものかどうかは分かりません。昔は幼少時と成人後で名前が変わっていたようですから、それもアリかなと思います・・・・・・なんてことを考えている私も、春満開?
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論語に学ぶ-論語読みの論語知らず[其の一]より☆第1回
◎「論語読みの論語知らず-其の一-本当に読みたい人のために」は、『論語に学ぶ』の最初に置かれている小題です。「これは世の中に論語読みの論語知らずが多いということではない」と断った上で、「人間というものは自分ではわかったような心算でも、なかなか本当のことはわからぬである」ということを述べられています。そして、「なかなか本当のことはわからない」ということを、『論語』に象徴される自らの体験を通して話されています。
◎安岡先生が30歳位の頃、先達と仰ぐ沼波瓊音氏(国文学者、俳人)を見舞われた時のエピソードが述べられています。晩年、病床に伏しておられた沼波瓊音氏は、しみじみ『論語』が読みたくなって読んでみると、「実に味わいの尽きぬものがあって、この年になってやっと論語がわかるような気がしてきた」とおっしゃったそうです。そして、安岡先生自身が、その時の沼波瓊音氏と同じ年頃になって、「(『論語』が)少しわかるようになった」と述べておられます。そして、「凡その学問・求道というものはそうであります。その真義は限りなく深いものである。」と続けておられます。
◎現代に生きる昭和・平成生まれの人の多くは、生活をするという点においても、学ぶという点においても恵まれた時代に育ちました。本だけではなく、マスメディアやインターネットの普及もあって、本人に学ぶ意欲さえあれば、その欲求を何らかの形で満たすことができる環境にいます。そして、ひと通りの情報を得て知ったような気持ちになり、それが態度にも表れます。しかし、情報として記憶しただけのことであって、それが身に付いたとカン違いしていることが少なく無いのでしょう。
◎『論語』は「子曰く、学んで時に之を習う、また説(よろこ)ばしからずや。」という言葉で始まります。「時に之を習う」という部分が、「その真義は限りなく深いものである」という言葉に符合するものだと思うのですが、私自身これができていませんでした。
◎占いを学ぶ過程で安岡先生の著作に触れ、学生時代に学んだ『論語』を十数年ぶりに読み直す機会も得ることができました。学生の頃は『論語』に説教臭い本というイメージを持っていた私にとって、改めて読む『論語』は違った形に映るようになりました。そして、安岡先生の『論語に学ぶ』や『論語の活学』を副読本的に読むことによって、『論語』を楽しむことができるようになりました。これを続けていけば、その味わい深さも少しは理解できるようもなるのでしょうね。まさに、「時に之を習う」を実践することが、学問・求道の秘訣であり、楽しむコツだといえるでしょう。
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