2008年04月27日
知識と智恵(智慧)
知識の学問と智慧の学問―何のために学ぶのか :『知命と立命』 第一章より
安岡正篤先生の著書『知命と立命』の第一章は、「何のために学ぶのか」というテーマにそって展開します。それを要約すると、次のようになります。
三つの学問
学問というものを根本的性質によって分類すると、三つに分けることができます。一つは知識の学問、二つ目は智慧の学問、そして三つ目が徳慧(とくけい・とくえ)の学問です。
知識の学問とは、今日の学問を代表するもので、我々の理解力・記憶力・判断力・推理力等、つまり悟性(ごせい)―論理的な思考力や経験から得た理性―の知識の学問働きによって、程度の差はあっても誰にでも一通りできる機械的な能力。
智慧の学問とは、知識の学問よりもっと経験を摘み、思索反省を重ねて、我々の性命―天から授かった人としての本質・使命―や、人間としての体験の中からにじみ出てくる、もっと直観的―本質を見抜くもの―で、人格的な学問。
徳慧(とくけい・とくえ)の学問とは、智慧の学問を深めることによってのみ得られる、徳に根ざした学問であり、徳の現れた学問。
三つの学問と『論語』
これを呼んで私の脳裏に思い浮かんだのが、加地伸行大阪文学部大学名誉教授の著書『論語』に登場する小人と君子の訳し方です。加地教授は、小人を知識人に、君子を教養人と解釈しておられまして、私としては名訳だと思っています。
この解釈に関しましては、弘前大学教育学部の山田史生教授の著書である「寝床で読む『論語』―これが凡人の生きる道」(ちくま新書622:絶版)に関連する騒動を巻き起こしましたが、知識人と教養人というのが、知識の学問と智慧の学問に通じると感じたのです。
知識の学問に満足するのが知識人であり、智慧の学問を目指しすのが教養人であり、そこから徳慧(とくけい・とくえ)の学問の域に達した者が君子ではないかと。そのように考えると、『論語』に書かれている言葉の一つひとつが、さらに輝きを増すようにも思われます。
たとえば、『論語』の冒頭に書かれている「学びて時にこれを習う」という一節も、知識人となることを目指しての学ぶのと、教養人たらんとして学んだことを習うということで、さらに消化して本質にたどり着くこととの違いを示す言葉であることが、ここに明白になるような気がするのです。
これを言い換えると、単に知識として学ぶことよりも、役立てようという意識を持って学ぶことが大切だということでしょう。ですから、学ぶことそのものが目的であっては足りなくて、学んだことを役立てること、活かす術を探ることを目的として意識しておかなくてはならないのではないでしょうか。
知識として学ぶ、すなわち記憶するということであれば、コンピュータのハードディスクに記憶させるほうが、人の脳に記憶させるよりも効率が良いわけで、記憶した情報を加工して創造するという人間の脳本来の特性を活かさなければ、学ぶと言うことの必要性が限られてしまいます。
知識として学ぶ知識の学問の愚かさは歴史的にも証明されていることで、その典型として中国の科挙があります。その科挙の愚かさに対する反省というものが現代の試験制度に反映されているか否かを考えると、果たしてどうなんでしょう。
徳に根ざし、徳の現れた徳慧(とくけい・とくえ)の学問に根ざした行政や政治が行われているとは、私には思えません。それよりも、根本的なもの、魂のようなものが忘れられているような気がしてならないのですが。
・・・・・・最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。《感謝》
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知命と立命☆人間学講話 コメント(0) トラックバック(0)