昨日、2010年2月4日は立春。昔の中国で生まれた占いでは立春が一年の始まりであり、この日の節入り時刻―2010年は2月4日午前7時48分―が生まれ年の境界になります。
たとえば中国生まれの占いでは、本日の午前5時に生まれた場合は「己(つちのと)丑年」生まれであり、午前9時生まれだと「庚(かのえ)寅年」生まれとなります。また、午前7時48分生まれであっても、出生地域によって「己(つちのと)丑年」生まれか「庚(かのえ)寅年」生まれかが異なります。
詳しくは過去の記事、「立春は1年の始まりでもあります―二十四節気について」に述べておりますので、そちらをご覧いただくとして、今回の記事は二十四節気や季節といった言葉に使われる“節”をテーマに考えてみました。
“節”は音読みで「セツ」、訓読みでは「ふし」と読みます。“節”という漢字は“竹かんむり”が付いていることで明らかなように、竹の「ふし」に由来します。“節”は一本の竹の区切りとなる部分であり、物事の区切りとなるところを節目と呼びます。
この“節”について、中国の寓話だったか、あるいは仏教の説話を出典とするのかを覚えていないのですが、このような話があります。
ある竹の子は思った。どの竹よりも早く伸びて、どの竹よりも高くなりたいと。
竹は下の節から順番に伸びるから、もし節が無かったなら、もっと早く伸びて大きくななれるだろうと考えて、天の神様に「節なんて要らないから早く大きくしてください」と祈ったのだ。
その思いは叶えられ、どの竹よりも早く伸びることができた。
しかし、成長するに従って竹が傾いた形で伸びるようになり、その重みに耐えかねて縦に亀裂が入ってあっという間に折れてしまった。
簡単にまとめると、このようなストーリーだったと思います。竹の“節”は、より真直ぐに上に伸びるために必要なものであり、一つひとつの“節”が上からの重みを支え、地面に伝えるようになっているのですね。節目があってこそ真直ぐに成長できると。
さて、季節というのは一年を四つに分けた節目であり、それぞれの季節を六つに分けたものが二十四節気で365日の暮らしの節目でもあります。そして、人にも節目というものがあり、誕生から7日目の“お七夜”に始まり、入学に進学、就職に定年などの学業の進度に伴うものがあります。それから、初恋や失恋、結婚や離婚、出産などの個々人の節目もあり、さらに突き詰めると一日一日が節目であるといえます。
そして、これらの節目をどのように迎え、そして如何に過ごすか、あるいはどのようにして乗り越えるかによって、ひとり一人の人生が違うものとなるのでしょうから、人にとっても“節”は必要なものだといえます。この人にとっての“節”について安岡正篤師は、『孟子(離婁章句下)の「為さざるあるなり、而(しこう)して後、以って為すあるべし」という言葉を引用して、次のように記しておられます。
人間とは、自分の欲望、自分の趣味に任せて何でもやり、油断をすると「為さざるなきなり」、何をするかわかったものではない。何でもしでかす。このごろの犯罪を見ても、病人を見ても、まったくこれは「為さざるなきなり」と、もう何でもやってのける。しかし、その中にあって、世の中がどうなっておろうが自分はこういうことはしないんだというのが、「為さざるありなり」である。これは理性と医師の力によって始めてできる。つまり、だらしのない人間の欲望や興味にまかせる生活に一つの締めくくりを与える、節をつけることである。それで初めて人間に「道」というものが立つ、これを義という。これを結んで「節義」と言います。
このように、“節”があるところに“義”が生まれ、「節義」が備わっているところに“礼”が生まれて「礼節」となるのでしょう。私ごときがこのように書くのは場違いな感じですが、書いて認識を新たにするという効能も少しはあろうかとは思います。
とにかく、今は何でもアリの「為さざるなきなり」というご時世で、政治や経済が行き詰っていても、その舵取りを担っている方達の多くが“義”を無視して無茶苦茶なことをやっているありさまです。もしかして、“節”というものが忘れ去られているのかもしれません。
戦後の日本は、経済成長によって復興することに主眼を置き、生産と消費を煽ってきたわけですが、大量生産と大量消費を繰り返すというメカニズムが、経済後進国の台頭によって機能しにくくなっているのが現状です。戦後日本は経済成長を急いだ竹だったという気がするのです。“節”を忘れた政策や経営を行った結果が今であり、ここで“節”を作っておかないと折れてしまうのかもしれません。
今回の記事は、二十四節気の“節”から政治経済の話題へと飛躍しすぎの感はありますが、経済成長という神話にドップリと浸かってきたのが私達です。ですから、普段の暮らしの中にある“節”を意識するところから、新たな、そして本物の成長が見えてくるのだと考えます。
さて、占いを仕事にしていて、運命を良い方向に導くものがバランスとリズムであることを感じます。心や行動のバランスが崩れていたり、リズム感のない生活をしていると、不思議と悪い方向に運命が動いてしまう・・・・・・本人が知らない間に運気というものに左右されて、思いがけないトラブルに遭遇したりするのです。
経済や政治においても、神様や仏様の御心で動くのではなく、指導者たる人たちの力によって動くのですから、その人たちが行う方針や政策にバランスやリズムに欠けることがあるのも無理からぬことで、それが今の状況なのです。そこで、この状況から脱却するために、区切りとなる“節”を一つひとつ明らかにすることが、“にっぽん再生”への道筋であると考えます。
そこで、「にほんを再生するためには、これが肝心なんじゃないか?」というものを持ち寄るために、「にっぽん再生―にっぽんを笑顔にしよう!」というトラコミュ(トラックバックコミュニティ)を作ってみました。三人寄れば文殊の知恵のごとく、色んな意見を持ち寄れば、新しい日本が見えてくるかもしれません。ご参加をお待ちいたしております。
ちなみに、私には特定の支持政党はなく、いかなる政治や思想や宗教の団体にも所属しておりませんし、ブログからホームページをたどっていただければ、所在も明らかにしております。ですから、このトラコミュを意図的に利用することもございませんので、安心してご参加ください。
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昨年のこの時期に、「2009年の己丑(つちのと うし)年を占ってみる!?」というタイトルのシリーズ記事を、別ブログである『暦(こよみ)と開運の資料館☆』と当ブログとに分けて投稿しました。その影響があってのことだろうと思うのですが、半年以上にわたって休眠状態にしております当ブログに、年末から年初にかけて(そこそこですが)多くのアクセスをいただきました。
おそらく、「2009年の己丑(つちのと うし)年を占ってみる!?」をご覧いただいたかたの中に、「2010年の庚寅(かのえ とら)年を占ってみる!?」という記事を探しに来られたというケースもあるんじゃないか?ということで、お知らせ的な記事を投稿させていただきました。
当ブログをご訪問いただいた方には申し訳ないのですが、平成22年(2010年)は、「2010年・平成22年の意味するもの」と題した記事を『暦(こよみ)と開運の資料館☆』のほうに絞って掲載させていただきました。お手数ですが、そちらをご覧頂ければ幸いです。
さて、記事の内容ですが、
1.「庚寅(かのえとら)年を占う:易卦」
2.「庚寅(かのえとら)年を斬る!」
3.「庚寅(かのえとら)年を六十干支で占う!?」
・・・・・・といったものを本日までにアップしておりまして、以降の記事で、「平成22年(2010年)庚寅年の展望」について、政策に関する意見を交えて述べて参りたいと思っております。
「占い師が政策に関する意見?」と思われる向きもあろうかとは存じますが、ワタクシだって書きたくはございません。この国の政治に対する歯痒さを感じる者の一人として、一事業主の意見を書かせていただいております。
「平成22年(2010年)の庚寅年を景気回復の年に・・・・・・」という思いは、私どもに来店されるお客様だけでなく多くの方が思われるところだと思います。そのためには、今の政治に対する批判に終始するのではなく建設的な提言が望まれます。そういう意味で、一占い師が考える“提言”を投稿する予定です。ということで、近いうちに記事をアップいたしますので、ご訪問下さいますようお願いいたします。
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◆「道楽の真意」の冒頭に、『論語』の「之を知るものは之を好むものに如かず。之を好むものは之を楽しむものに如かず」(知之者不如好之者、好之者不如楽之者)という言葉が引用されています。人が情報を得たり理解したりする行為、すなわち「学ぶ」ということが、「知る」、「好む」、「楽しむ」の、三つのレベルに分かれることを説いている言葉です。
◆ここで述べられている「楽しむ」というのは、『論語』の最初に書かれている、「学びて時に之を習う、また説(よろこ)ばしからずや。朋有り、遠方より来る、また楽しからずや・・・・・・」という言葉の「楽しからずや」にも通じる言葉です。
◆「知る」というレベルから発展して「好む」というレベル、理解を進めるレベルに進むことが説(よろこ)ばしいことであり、さらに遠方より来る朋(とも)と語り合い、切磋琢磨して理解を深める段階に至って楽しいと思えるえるようになり、「楽しむ」というレベルに達するのでしょう。で、「楽しむ」というレベルに達した人が“達人”と呼ばれるんですかね。
◆安岡師は「之を楽しむものに如かず」という言葉が、「科学的考察から言っても、ぴったりあたっております」とし、知るという行為が脳にどのような働きを伴うかを解説しておられます。
◆「知るという働きは、大脳の新しい皮質が司るものでありますが、然(しか)しこれを好むとか、楽しむとかいう事になると、間脳や本具の皮質と一致しなければ成り立たない。好むというのはより多く本能的でありますが、楽しむとなるとこれは後天的というか、理知的なものが加わってくる。」とし、「楽しむ」というレベルが本能的な素因だけによるものではなく、「理知的なもの」の働きが必要であることを説かれています。
◆では、「理知的なもの」の働きというのは具体的にどのようなものなのか?・・・・・・それを前回の記事で紹介した「知者楽水,仁者楽山」という言葉で説明されているのですが、詳細は次回の記事へとつづきます。
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◆『人生と陽明学』の「言志四録」の中に、《道楽の真意》と題した文章が収められています。そこでは、『論語』から引用した言葉を基に、“道楽の真意”が展開されているのです。
◆で、今回の記事は、その中の誤りを訂正するものです。
◆その箇所とは、「知者樂水,仁者樂山」を「仁者は山を愛し、知者は水を楽しむ」と訳されている点です。
◆この部分、『論語』から引用されたものとすれば「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」(雍也第六)と訳すのが正解なわけですけれども、安岡師の心の中では、「仁者は山を愛し、知者は水を楽しむ」という言葉に醸成されていたのだと思うのです。
◆あるいは、他の文献で「知者樂水,仁者愛山」とするものが在ったのかも?(掛け軸とかで「知者樂水,仁者愛山」と書いたものがあるようなのですが、浅学故に出典を知りません。)
◆ですから、この箇所を単なる間違いとして論(あげつら)うことそのものが誤りであって、前後の文脈を含めて読み取る必要があるだろうと考えるのです。
◆こういった箇所を取り上げて批判的に意見するだけでは、話題の本線からズレてしまうばかりですので、あえて書かせていただきました。
◆ということで、短いですが、つづきは次回の記事で。
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◆安岡師の『論語に学ぶ』(PHP文庫)に収められている「論語読みの論語知らず」という章の中に、「利について」という一文があります。『論語』の[里仁編12章]にある「利に放(よ)って行へば怨み多し―放於利而行多怨」の「利」の意味するところを説かれたものです。簡略にまとめられた文章なので、以下に引用させていただきました。
今日も同じこと。皆利を追って暮らしておるが、利を求めて却(かえ)って利を失い、利によって誤られて、際限なく怨をつくっておる。それは利とは何ぞやということを知らぬからである、利の本は義である、ということを知らぬからである。従って本当に利を得んとすれば、如何にすることが義かという根本に立ち返らなければならない。これは千古易(か)わらぬ事実であり、法則である。そこで人間は与えられておるところの精神というものを大いに活用して、行為・行動に精を出さなければいけない。―(「利について」より)
◆さて、ここに書かれている「利」の意味を金銭的な利得と受け取ってしてしまうと、その解釈の範囲が狭まってしまい、「利の本は義である」の意味するところも違ってきます。実際に、「利に放(よ)って行へば怨み多し―放於利而行多怨」の和訳を、「利益ばかりにもたれて行動していると、怨まれることが多い」としているものもありますが、このように訳してしまうと「利の本は義である」という言葉が指し示す範囲が狭まってしまいます。
◆「利の本は義である」という言葉は、『易経』の文言伝にある「利は義の和なり―利者義之和也」に由来します。「義」は物事の道理・筋道であり、『中庸』の[第20章]には「義(ギ)は宜(ギ)なり―義者宜也」とあります。「宜(ギ)」とは、「かなっている」、「当然である」という意味があります。道理・筋道に適っていて、調和が取れたところに「利」が生まれるということでしょう。
◆だとすると、「利」とは気の流れのようなもので、物事が整っている状態、障害の無い状態の中に流れができるのでしょう。言い換えれば、道理・筋道という基盤やプロセスがシッカリとしていてこそ、「利」という見通しが立つのです。しかし、道理・筋道を無視して「利」という流れを作ろうとするところに無理が生まれ、「怨」を招いて障害が起こるのですね。
◆「利の本は義である」というのが本来の姿であるとすれば、「義」が「欺」に取って代わられているのが現代社会であるように思います。そして、ニセモノである「欺」を本物の「義」であるかのように偽装するために、ビジネスにおいても経済においても、そして政(まつりごと)においても雑多な主義・主張が跋扈(バッコ)して、これを「価値観の多様性」とか「自由主義」とかいった言葉で片付けようとしているところがあるように思えます。
◆それぞれの勝手な「欺」を改めることなく、「利」という流れを作って結果を得ることに必死になって、それが「怨」を招くことになっているのだと思います。このような現状を予測した上で、安岡師が「本当に利を得んとすれば、如何にすることが義かという根本に立ち返らなければならない」。「そこで人間は与えられておるところの精神というものを大いに活用して、行為・行動に精を出さなければいけない」という言葉を記されているのだと思います。難しいことかもしれませんが、それを意識するとしないで大きな差が生じるのです。
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