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知識の学問と智慧の学問―何のために学ぶのか :『知命と立命』 第一章より
安岡正篤先生の著書『知命と立命』の第一章は、「何のために学ぶのか」というテーマにそって展開します。それを要約すると、次のようになります。


三つの学問
学問というものを根本的性質によって分類すると、三つに分けることができます。一つは知識の学問、二つ目は智慧の学問、そして三つ目が徳慧(とくけい・とくえ)の学問です。

知識の学問とは、今日の学問を代表するもので、我々の理解力・記憶力・判断力・推理力等、つまり悟性(ごせい)―論理的な思考力や経験から得た理性―の知識の学問働きによって、程度の差はあっても誰にでも一通りできる機械的な能力。

智慧の学問とは、知識の学問よりもっと経験を摘み、思索反省を重ねて、我々の性命―天から授かった人としての本質・使命―や、人間としての体験の中からにじみ出てくる、もっと直観的―本質を見抜くもの―で、人格的な学問。

徳慧(とくけい・とくえ)の学問とは、智慧の学問を深めることによってのみ得られる、徳に根ざした学問であり、徳の現れた学問。


三つの学問と『論語』
これを呼んで私の脳裏に思い浮かんだのが、加地伸行大阪文学部大学名誉教授の著書『論語』に登場する小人と君子の訳し方です。加地教授は、小人を知識人に、君子を教養人と解釈しておられまして、私としては名訳だと思っています。

この解釈に関しましては、弘前大学教育学部の山田史生教授の著書である「寝床で読む『論語』―これが凡人の生きる道」(ちくま新書622:絶版)に関連する騒動を巻き起こしましたが、知識人と教養人というのが、知識の学問智慧の学問に通じると感じたのです。

知識の学問に満足するのが知識人であり、智慧の学問を目指しすのが教養人であり、そこから徳慧(とくけい・とくえ)の学問の域に達した者が君子ではないかと。そのように考えると、『論語』に書かれている言葉の一つひとつが、さらに輝きを増すようにも思われます。

たとえば、『論語』の冒頭に書かれている「学びて時にこれを習う」という一節も、知識人となることを目指しての学ぶのと、教養人たらんとして学んだことを習うということで、さらに消化して本質にたどり着くこととの違いを示す言葉であることが、ここに明白になるような気がするのです。

これを言い換えると、単に知識として学ぶことよりも、役立てようという意識を持って学ぶことが大切だということでしょう。ですから、学ぶことそのものが目的であっては足りなくて、学んだことを役立てること、活かす術を探ることを目的として意識しておかなくてはならないのではないでしょうか。

知識として学ぶ、すなわち記憶するということであれば、コンピュータのハードディスクに記憶させるほうが、人の脳に記憶させるよりも効率が良いわけで、記憶した情報を加工して創造するという人間の脳本来の特性を活かさなければ、学ぶと言うことの必要性が限られてしまいます。

知識として学ぶ知識の学問の愚かさは歴史的にも証明されていることで、その典型として中国の科挙があります。その科挙の愚かさに対する反省というものが現代の試験制度に反映されているか否かを考えると、果たしてどうなんでしょう。

徳に根ざし、徳の現れた徳慧(とくけい・とくえ)の学問に根ざした行政や政治が行われているとは、私には思えません。それよりも、根本的なもの、魂のようなものが忘れられているような気がしてならないのですが。

・・・・・・最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。《感謝》

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岡先生の弟子と名乗っている細木数子さんが、2008年正月1月2日のテレビ番組で、言ってましたね。「大安は吉日というのは誤りです。大いに安(あ)んぜよ、大いに安らかであれという意味で、この日一日物事をやってはいけませんということで、静かにしてなさいという日なんです。」というような話でした。この話に関しては、私のブログ『開運と暦(こよみ)のメモ』でも「大安は、“大いに安(あ)んぜよという意味”って、ホントなの?」というタイトルの記事をアップしています。大安を始めとする六曜(六輝)や、暦(こよみ)に登場する言葉は、『開運と暦(こよみ)のメモ』に記録しているところなので、そちらにもご訪問いただければ幸いです。ブログのPRはこれくらいにして、話を本題に戻しましょう。

木さんの“大安の話”のネタ元が、実は『干支の活学』(安岡正篤著)の中にあるのです。この本の「戊申(ボシン)」という章の中で、大安に関する記述があります。該当箇所を要約すると、次のようになります。

―大安―暦にも、いろいろと学問的に正しい意味と、長い間に民間に伝えられるうちに、おかしい意味のものになったものもあります。「婚礼は大安に限る」などというのは大きな間違いで、「大いに安(やす)んぜよ」、あの日は静かにじっとしておれということであります。それを大安と書いてあるから、なんでもいい日だと考えて、競って大安の日に結婚式をやる。そして新婚夫婦を何組も乗せた飛行機が落ちて死ぬと、大安もあてにならぬなどというのですが、本当はそんなことを考えるのが見当ちがいで、迷信の著しいものです。

岡先生がおっしゃっておられるのは、暦に載っているもので「迷信の著しいもの」である部分に踊らされることを戒めておられるのです。それに対して細木さんは、視聴者が喰い付きやすい大安の部分に着目して話しちゃったものですから、“大安の日の結婚はダメ”ってニュアンスで受け取られてしまったのです。Googleで「大安 細木」と入れて検索すると、大安の結婚式にかんすることから婚姻届のことまで出てきます。細木さんも迷信に振り回されることの愚かさを言いたかったのかもしれませんが、“大安はよくない日”として広まってしまうところにメディアの威力を感じてしまいます。

の「安」の部分の解釈についても、細木さんはカン違いされているようです。「大いに安んぜよ」と書かれている部分は「大(おお)いに安(やす)んぜよ」とよむのですが、細木さんは「大(おお)いに安(あ)んぜよ」と言っていました。日本語の「あんぜよ」を漢字にすると「案ぜよ」あるいは「按ぜよ」となり、「安んぜよ」は「やすんぜよ」と読まなければならないのです。「安(やす)んぜよ」と「案(あん)ぜよ・按ぜよ」の意味を調べると、「安(やす)んずる」には、“安らかにする”、“安心する”、“安心させる”、“満足する”などの意味があります。そして、「案ずる」には“心配する”、“考え出す”、“工夫する”などの意味があり、「按ずる」には“手で押さえたり撫でたりする”、“考えをめぐらす”、“考えをめぐらす”、“調べる”などの意味があります。

に使われているのは「安」ですから、“大いに安らかにする”、“大いに安心する”、“大いに安心させる”、“大いに満足する”という意味のいずれかが正しいということになります。これから判断すると、「静かにじっとしておれということ」ばかりではないようです。まあ、安岡先生の場合は、著書の中にも極端な表現がちょこちょこと出てきますから、これもその一つかなって感じです。しかし、ここで言わんとしていることが損なわれるほどのことではないと思います。こういうところにツッコミを入れ過ぎるのは、揚げ足取りになってしまいます。

ころで、今回引用した大安という箇所は、『干支の活学』(安岡正篤著)に納められている「戊申(ボシン)」という章のごく一部でして、この本の読みどころは他に沢山あります。その部分については、いずれ記事として紹介する予定です。

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前回に続いて、論語の[学而編第一の四]にある・・・・・・

  曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身をる。人の為めに謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。
   ソウシ イワく、ワれヒにミたびワがミをカエリミる。ヒトのタめにハカりてチュウならざるか、ホウユウとマジわりてシンならざるか、ナラわざるをツタうるか。

 曾子曰、吾日三吾身、為人謀而不忠乎、與(与)朋友交言而不信乎、傳(伝)不習乎。

・・・・・・という言葉を題材に取上げて話を進めます。

「吾日三吾身」の読み方と解釈については、前回の記字に書いておりますので、今回の記事では、という字をもう少し発展させた内容についてかきます。安岡先生は、という字について、つぎのように書かれています。

「このの字をつくづく味わってみると、かえりみてはぶくことの一番根源的なものは自己であるから、人間の存在そのもの、その生活、また従って政治にしろ、道徳にしろ、人間に関する一切はこの一〈〉字に尽きると申してよろしい。」

・・・・・・と。そして植木の栽培を例にとって、良い木を栽培する五原則に話が及び、枝葉の茂りをする、すなわちコントロールすることが大切なのですが、それは簡単にできるものではなく、「智慧と経験とが一致して初めて立派にできることである。」と述べられています。植木の剪定方法を知ったとしても、木は一本一本が違うわけですから、どれも同じという具合には行きません。これは、論語の[公冶長第五の二十二]に書かれている、「之を裁する所以(ユエン)を知らず」に通じることですね。

「之を裁する所以(ユエン)を知らず」というのは、裁縫の心得はあっても、それに使う生地のよさを引き出す裁ち方、要領までは心得ていないという意味でしょう。これは、色々なことに当てはまりますね。例えば、同じレシピで調理をしても、出来上がった料理の味は異なります。あるいは、ゴルフや釣の道具を同じにして、同じ環境で学んだとしても、実際にやってみると釣果やスコアまでが同じにはなりません。同様の例を挙げると、キリが無いくらいですね。この違いを、個々人の素質や才能の差として片付けてしまうのは簡単ですが、「智慧と経験」の違いで補えることでもあるのですね。学んだ中から生まれる疑問や推論が「智慧」であり、それを検証したり解き明かしたりすることが「経験」であって、この二つの行為が「智慧と経験を一致」させることなのでしょう。そして、どの分野においても、これを心得ている人だけが“本物”になるんでしょうね。

「三という言葉は、自身をみることによって「智慧と経験を一致」させることを示しているのでしょう。言い方を替えれば、「素質や才能」を持つ者であっても、「智慧と経験を一致」させることができなければ、「之を裁する所以(ユエン)を知らず」ということになるのですね。これは学力や技能にかぎったことではなく、「人格、その活動である道徳も同じことが言える」と、安岡先生は書かれています。この「智慧と経験を一致」させることこそが、[学而編第一]の冒頭にある「学びて之を時習す」「時習」の言わんとするところなのですね。「学」を「知識や記憶という学力や技能」とするならば、それを生かすための「智慧と経験を一致」させることが「習」の意味するところなのです。

このように考えると、今の教育は。「学」に偏重していて、「習」に欠けているように感じます。そして、「学」に長けた者が試験にパスして大企業や国家の中枢を担って、ニッポンを動かすワケですね。こういったことにも目を向けながらでなければ、教育改革というのも“絵に描いた餅”に終わるのでしょうね。それを託されている人たちが、どれだけすることをしているのか気になるところです。「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」という事態だけは、想像したくないですね。
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論語の学而編の四には・・・・・・

  曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省る。人の為めに謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。
   ソウシ イワく、ワれヒにミたびワがミをカエリミる。ヒトのタめにハカりてチュウならざるか、ホウユウとマジわりてシンならざるか、ナラわざるをツタうるか。

 曾子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、與(与)朋友交言而不信乎、傳(伝)不習乎。

・・・・・・という言葉が書かれています。上記の読み下し文は、金谷治先生(岩波文庫)のものです。

論語の解釈には多様なものがあり、他の著名な訳者の読み下し文と比較すると、それぞれが微妙に違っています。一つひとつに納得できる部分もあるのですが、意味の伝わりにくいところもありまして、これらを読み比べて見るだけでも興味の尽きないものがあります。しかし、ここでは安岡先生が注目されている「三省」の「省」についてスポットを当ててみることにして、学而編四の全体的な鑑賞は別の機会に書くことにします。

さて、冒頭の「学而編四」の「三省」の解釈にもさまざまなものがありまして、「三」を、「三たび(三度)」とか「三つ」とかというようように説明しています。しかし、このような限定的な意味に受け取ることには、今ひとつしっくりと来ないものを感じるのですね。「三省」の読みについて安岡先生は、「やはりここは音読して“さん”と読むべきです。三は三度と限ったことではない。常にとか、しばしばという意味です。」とし、この後に「ただし問題は三ではなくて省の字にある。」と書かれています。「三省」という部分は、「サンセイ」と熟語のように読むのが相応しいと述べておられるのですね。そして、この節で重要なのは、「三省」の「三」よりも「省」のほうにあるということですね。私のような凡庸にとっては、「三」の解釈にも興味があるのですが、テーマがボケてしまうので、「省」の解釈に絞ることにしましょう。

「三省」の「省」の読み下しは、「かえりみる」とされています。これは金谷治先生(岩波文庫)のものに限ったことではなく、他の先生の訳も多くが同様に書かれていまして、「省(かえり)みる」、「反省する」と解釈されています。しかし、「省」は「省エネルギー」の「省」でもあるワケですから、単に「省(かえり)み」たり「反省」したりするというだけでは無いということになるんですね。安岡先生は、「これを“かえりみる”と読んでおるが、これだけでは五十点。今一つは“はぶく”という意味がある。」と説明されています。

中国古代文学と漢字の研究で有名な白川静先生の『常用字解』によると、つぎのように書かれています。「金文字形は生の下に目をかく形で、音符は生(セイ)。のち生が少の形となる。」・・・(中略)・・・「生・少は本来は眉に飾りを加えた形ではではないかと思われる。目の呪力(まじないの力)を強めるために眉飾りをつけることが多いからである。その呪力のある目で巡察すること、見まわることを省という。」・・・・・・と。

また、「省」の熟語を調べてみると・・・・・・
  • 「省約(ショウヤク):減らして簡単にする」
  • 「省略(ショウリャク):はぶく」
  • 「省改(セイカイ):反省して改める」
  • 「省悟(セイゴ):反省してさとる」
  • 「省察(セイサツ):かえりみて、よく考える」
  • 「省風(セイフウ):風習や風俗を細かに調べる」
・・・・・・などがあります。これらを見ても、「はぶくという意味がある」という安岡先生の言葉が、「三省」の説明として的を得たものであることを得心できるものですね。

ということから、「三省」の「省」を「省(かえり)みる」と読むことも「反省する」と解釈することにも、意味のズレがあることが明らかになりますね。「三たび吾が身を省る」と読むよりも、「三省する」と読むほうが、この文章のニュアンスを率直に伝えることができると思います。そして、その意味を「ことあるごとに(常に)確認して省察・省改する」と解釈することが正しいように思います。そして、“ことあるごと”というのは、“リアルタイム”に近い意味合いも持つ考えるべきでしょう。

これらの言葉は、孔子の教えに基づいた曾子の言行として記されたものです。曾子は字(あざな)を子與(シヨ)と呼ばれ、孔子の晩年に弟子になった人物ですが、弟子の中でも優秀だったようです。それほどの人物ですから、自身の言行について「省みる(後で思い出す)」だけの凡庸な人物ではないでしょう。人と接して相談を受けているときも、友人と意見を交わしているときも、常(リアルタイム)に自身の言行をチェックしているはずです。そしてなお、それを反芻(ハンスウ)するように、繰り返してチェックを繰り返しながら接してているのです。

そして、自身の言行に行き過ぎは無いか、あるいは足りないところが無いだろうかというように、過不足を確認する作業を繰り返すのだろうと考えるのです。私たちが勉強や仕事の場においても、リアルタイムに過不足が確認できれば、効率よく進められるわけですから、曾子ほどの人物であれば、そういう能力も当然備わっているはずですし、多くの人間に備わっている能力でもあります。要はそれを自覚するか否かということが問題なのであって、この節のテーマもそこにあるのでしょう。

自分の発言や行動について、過不足をチェックする意識を持つか否かが大切なのであり、それを意識することが中庸を保つための心構えである・・・・・・というのが、この節のメッセージだといえます。こういうことを意識せずに、その時の気分にまかせたり、功名心や欲に囚われていては、適切な言葉も出てこなければ、責任ある行動もできないということですね。そして、当人は頑張った気になっていても空回りしているだけの、自己満足に終わってしまうのでしょう。

私は占いを職業としていますから、人様と話をすることが主なシゴトです。そういう意味で、この言葉は自身の指標であり、自身を測るための物差しでもあると考えています。占いというシゴトは、安きに流れようとすれば幾らでも流すことができるものですから、ツッカエ棒になるようなものが無ければ堕落するのみです。そういう占い師も、イヤと言うほど目にしたり聞き及んだりしています。そして、これは占い師に限らず、多くの人に当てはまることでもあるしょう。

この後に続く「不忠乎(忠ならざるか)」の“忠”、「不信乎(信ならざるか)」の“信”、そして「傳(伝)不習乎(習わざるを伝うるか)」の“習”についても、イロイロと書いておきたいことはあるのですが、何れかの機会に実現できればと思っています。それと、『論語に学ぶ』の「省の真意について」という一節には、「省」という字の意味に関連して、興味深い話が展開されるのですが、それも次回の記事で・・・・・・ということにさせて頂きます。最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。《感謝》

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論語は学而編の・・・・・・
  子曰く、学びて時に之を習う、亦た説ばしからず乎。
  シ イワく、マナびてトキ(ココ)にコレをナラう、マたヨロコばしからずヤ。

  子曰、学而時習之、不亦説乎。

・・・・・・という言葉から始まりますが、「学びて時に」というくだりを、「学んだことを時々思い出して復習する」と解釈するのが一般的ですね。これを英語で表すと、“sometimes”と同じになります。これに対して安岡先生は、「時々では意味がおかしい」と書かれています。

論語は孔子(紀元前551年‐紀元前479年)とその弟子たちの言行録をまとめたもので、彼の没後にまとめられているものです。そこに集められた言行録を編纂するという作業は、それを行うものにとっては、「学んだことを時々思い出して復習する」という作業に等しいかもしれません。しかし、「学而時習之」の「学」と「習」の関係は、学んだことを復習するというものだとは思えないのです。

貝原茂樹先生の訳(中公クラッシックス‐中央公論社)では、これを「学んで時(ここ)に習う」とあります。安岡先生は「学んで時之(これ)を習ふ」という解釈を評価したうえで、「学んで之を時習(じしゅう)す」と読まれています。この2つの訳のほうが、的を得ているように思います。「学而時習之」の「時」は、時の流れを刻んだ時々という意味ではなく、タイミングを見ながらという意味なんでしょうね。

学んだことを折にふれて思い出しながら習うことによって、それが「時習」から「時活(じかつ‐これを活かす)」というようなものに変わるのでしょう。「学」というものは、覚えるだけのものではなく、活かしてこそ意味のあるものだということが「学而時習之」という言葉に含まれていて、論語の冒頭に置かれているのですね。

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次回は「省の真意について」に関する記事を予定しています。左サイドバーのリンク、《ルネッサンス&関連サイト》より、私どものブログに移動できます。ご訪問をお待ちしています。 《再見!》

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