◆「道楽の真意」の冒頭に、『論語』の「之を知るものは之を好むものに如かず。之を好むものは之を楽しむものに如かず」(知之者不如好之者、好之者不如楽之者)という言葉が引用されています。人が情報を得たり理解したりする行為、すなわち「学ぶ」ということが、「知る」、「好む」、「楽しむ」の、三つのレベルに分かれることを説いている言葉です。
◆ここで述べられている「楽しむ」というのは、『論語』の最初に書かれている、「学びて時に之を習う、また説(よろこ)ばしからずや。朋有り、遠方より来る、また楽しからずや・・・・・・」という言葉の「楽しからずや」にも通じる言葉です。
◆「知る」というレベルから発展して「好む」というレベル、理解を進めるレベルに進むことが説(よろこ)ばしいことであり、さらに遠方より来る朋(とも)と語り合い、切磋琢磨して理解を深める段階に至って楽しいと思えるえるようになり、「楽しむ」というレベルに達するのでしょう。で、「楽しむ」というレベルに達した人が“達人”と呼ばれるんですかね。
◆安岡師は「之を楽しむものに如かず」という言葉が、「科学的考察から言っても、ぴったりあたっております」とし、知るという行為が脳にどのような働きを伴うかを解説しておられます。
◆「知るという働きは、大脳の新しい皮質が司るものでありますが、然(しか)しこれを好むとか、楽しむとかいう事になると、間脳や本具の皮質と一致しなければ成り立たない。好むというのはより多く本能的でありますが、楽しむとなるとこれは後天的というか、理知的なものが加わってくる。」とし、「楽しむ」というレベルが本能的な素因だけによるものではなく、「理知的なもの」の働きが必要であることを説かれています。
◆では、「理知的なもの」の働きというのは具体的にどのようなものなのか?・・・・・・それを前回の記事で紹介した「知者楽水,仁者楽山」という言葉で説明されているのですが、詳細は次回の記事へとつづきます。
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◆『人生と陽明学』の「言志四録」の中に、《道楽の真意》と題した文章が収められています。そこでは、『論語』から引用した言葉を基に、“道楽の真意”が展開されているのです。
◆で、今回の記事は、その中の誤りを訂正するものです。
◆その箇所とは、「知者樂水,仁者樂山」を「仁者は山を愛し、知者は水を楽しむ」と訳されている点です。
◆この部分、『論語』から引用されたものとすれば「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」(雍也第六)と訳すのが正解なわけですけれども、安岡師の心の中では、「仁者は山を愛し、知者は水を楽しむ」という言葉に醸成されていたのだと思うのです。
◆あるいは、他の文献で「知者樂水,仁者愛山」とするものが在ったのかも?(掛け軸とかで「知者樂水,仁者愛山」と書いたものがあるようなのですが、浅学故に出典を知りません。)
◆ですから、この箇所を単なる間違いとして論(あげつら)うことそのものが誤りであって、前後の文脈を含めて読み取る必要があるだろうと考えるのです。
◆こういった箇所を取り上げて批判的に意見するだけでは、話題の本線からズレてしまうばかりですので、あえて書かせていただきました。
◆ということで、短いですが、つづきは次回の記事で。
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◆安岡師の『論語に学ぶ』(PHP文庫)に収められている「論語読みの論語知らず」という章の中に、「利について」という一文があります。『論語』の[里仁編12章]にある「利に放(よ)って行へば怨み多し―放於利而行多怨」の「利」の意味するところを説かれたものです。簡略にまとめられた文章なので、以下に引用させていただきました。
今日も同じこと。皆利を追って暮らしておるが、利を求めて却(かえ)って利を失い、利によって誤られて、際限なく怨をつくっておる。それは利とは何ぞやということを知らぬからである、利の本は義である、ということを知らぬからである。従って本当に利を得んとすれば、如何にすることが義かという根本に立ち返らなければならない。これは千古易(か)わらぬ事実であり、法則である。そこで人間は与えられておるところの精神というものを大いに活用して、行為・行動に精を出さなければいけない。―(「利について」より)
◆さて、ここに書かれている「利」の意味を金銭的な利得と受け取ってしてしまうと、その解釈の範囲が狭まってしまい、「利の本は義である」の意味するところも違ってきます。実際に、「利に放(よ)って行へば怨み多し―放於利而行多怨」の和訳を、「利益ばかりにもたれて行動していると、怨まれることが多い」としているものもありますが、このように訳してしまうと「利の本は義である」という言葉が指し示す範囲が狭まってしまいます。
◆「利の本は義である」という言葉は、『易経』の文言伝にある「利は義の和なり―利者義之和也」に由来します。「義」は物事の道理・筋道であり、『中庸』の[第20章]には「義(ギ)は宜(ギ)なり―義者宜也」とあります。「宜(ギ)」とは、「かなっている」、「当然である」という意味があります。道理・筋道に適っていて、調和が取れたところに「利」が生まれるということでしょう。
◆だとすると、「利」とは気の流れのようなもので、物事が整っている状態、障害の無い状態の中に流れができるのでしょう。言い換えれば、道理・筋道という基盤やプロセスがシッカリとしていてこそ、「利」という見通しが立つのです。しかし、道理・筋道を無視して「利」という流れを作ろうとするところに無理が生まれ、「怨」を招いて障害が起こるのですね。
◆「利の本は義である」というのが本来の姿であるとすれば、「義」が「欺」に取って代わられているのが現代社会であるように思います。そして、ニセモノである「欺」を本物の「義」であるかのように偽装するために、ビジネスにおいても経済においても、そして政(まつりごと)においても雑多な主義・主張が跋扈(バッコ)して、これを「価値観の多様性」とか「自由主義」とかいった言葉で片付けようとしているところがあるように思えます。
◆それぞれの勝手な「欺」を改めることなく、「利」という流れを作って結果を得ることに必死になって、それが「怨」を招くことになっているのだと思います。このような現状を予測した上で、安岡師が「本当に利を得んとすれば、如何にすることが義かという根本に立ち返らなければならない」。「そこで人間は与えられておるところの精神というものを大いに活用して、行為・行動に精を出さなければいけない」という言葉を記されているのだと思います。難しいことかもしれませんが、それを意識するとしないで大きな差が生じるのです。
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◆安岡正篤師の『易と人生哲学』(致知出版社)は、占い師としても安岡師のファンとしても、何度も繰り返して読んでいる愛読書の一つです。しかし、この作品の中には、眼にするたびに引っかかる一節があります。それは、「丙午の日に生まれの人は夫婦縁に故障が生じやすいといいます。」という一文で、四柱推命の解釈を引用したものです。
◆この作品が書かれたのは昭和52年頃ですから、「丙午の日」生まれに関する当時の四柱推命の解釈としては間違ってはいません。しかし、現実とは一致しない解釈であり、今となっては間違った解釈になっているのです。もっとも、未だに「丙午の日」生まれの解釈を誤ったままでいる四柱推命の流派も存在するようですから困ったものなのですですが、そういった研究心の足りない流派のことは置いといて、正しい解釈を述べて置きます。安岡先生の本に書かれていたのだから、「丙午の日に生まれの人は夫婦縁に故障が生じやすい」というのは本当なんだろう・・・・・・なんて思ってしまう人もいるかもしれませんから。
◆それに、こういうことって迷信だとは思っていても、縁談の相手が「丙午の日」生まれだという現実に直面した場合に、当事者だけでなく周りの人にとっても、要らぬ心配が生じるものです。また、当の「丙午の日」生まれの女性にとっては、自らがその日を選んで生まれてきたワケでもないのに、根拠の無い因縁を押し付けられて嫌な思いをしなければならないというケースが生じたりもしますから、極めて理不尽な話です。
◆さて、ここで丙の日生まれの女性有名人を、一部ですが下記にリストアップしたのですが、この中で「丙午の日」生まれの人は?・・・・・・詳しくは後で!(敬称略・順不同)
◆さてさて、これらの中で、「丙午の日」生まれの女性は誰だと思いますか?・・・・・・上記のリストの中で、「丙午の日」生まれなのは、
◆つまり、上から7名までが「丙午の日」生まれです。そして、それ以外の方は「丙午の日」ではなく、丙子・丙寅・丙辰・丙申・丙戌のいずれかの日の生まれなのです。
◆これを見れば、俗に言われている「丙午の日生まれの女性は男を食い殺す」なんて迷信が根拠の無いものだということが、あれこれ説明するよりも明白ですし、簡単に納得していただけると思います。
◆ところで、四柱推命という占術には、時代を経る中で進化している流派もあれば、百年一日のごとく進歩していない流派もあります。そして、前者と後者のどちらが普及しているかというと、“百年一日のごとく進歩していない流派”のほうです。
◆茶道とか華道とか、あるいは歌舞伎とか、伝統的なものは廃れないというジャンルもありますが、占いに関しては伝統的なものでは困ります。ところが、“百年一日のごとく進歩していない流派”の昔風の占いのほうが、ある意味神秘的な・・・・・・表現を変えると非現実的な話題を持つことから、それが面白おかしくて、マスコミにも受け入れられやすいのかもしれません。
◆このように書くと、「細木さんが作った六星占術は新しい占術でしょ」って声が出てきそうですが、これも伝統的な占術の焼き直し、あるいはコピー的なシロモノです。これを説明すると長くなりますすし、ワタクシが運営する別のブログ『暦(こよみ)と開運の資料館☆』に書いておりますので、そちらをご覧下さいませ。
◆最後に、『易と人生哲学』(致知出版社)の中で、なぜ「丙午の日」生まれを話題にされたのか?・・・・・・わざわざ取り上げなくても話を進めることはできたのです。その理由として考えられるのは、この作品自体が講演記録ですから、聞き手にとって身近な話題を導入部に置いて集中させたのでしょう。それと、もう1つ。安岡正篤師の誕生日が「丙午の日」でして、それがご本人にとっても興味のある話題だったのでしょう。
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◆毎年、年末になると財団法人日本漢字能力検定協会から発表される“今年の漢字”ですが、昨年2008年に選ばれた“今年の漢字”は「変」でした。“ヘン”、“かわる”、“かえる”という読みがあり、意味としては「姿や形が今までと違った状態になる、その状態にする」場合や、「異常な出来事が生じる」場合に使われます。
◆安岡師の『論語に学ぶ』に、『論語』に登場する「変」という漢字というと「君子豹変」が有名ですが、今回は今の時勢にピッタリなものをネタにさせていただくことにしました。
◆『論語』の雍也編に、以下のように記されています。
子曰く、
斉一変せば魯に至り、
魯一変せば道に至らん。
子曰、
斉一変至於魯、
魯一変至於道。
子の曰く、
斉の国が一たび変われば魯の国のようになり、
魯の国が一たび変われば(徳を備えた国家としての)道に至るであろう。
◆これを現代語に訳すと、こうなります。
孔子様がおっしゃった、「斉の国が一たび変われば魯の国のようになり、魯の国が一たび変われば(徳を備えた国家としての)道に至るであろう。」・・・・・・と。
◆ここに「一変」という熟語が登場しています。「一変」という言葉は、日本語だとオセロの石を白から黒に変えるように、「ガラリと変わる」とか「一気に変わる」というような極端な変化を表す意味で使われます。しかし、中国語の「一変」という言葉のニュアンスはまったく違っていて、「少しかわる」とか「一たびかわる」という意味で、極端な変化を表すものではありません。
◆『論語』の訳注書によっては、「一変」を「ガラリと改革すれば」とする訳もあれば、この部分を訳さずに「一変すれば」としているだけの訳もあります。こういった訳し方の違いを読み比べるだけでも、『論語』を理解する上で面白いと思います。
◆かなり古いキャラで恐縮ですが、日本語だと“大魔神”の顔が「一変」するで通じるのですが、中国語だと「豹変」、もしくは「急変」するという表現でなければ通じないワケですね・・・・・・私は“大魔神”世代では無いのですが、「懐かしのヒーロー」みたいなタイトルの番組だったかCMだったかが印象に残っていたので使ってみました。
◆“大魔神”を知らない方のために、もう1つ例を挙げると、改築とか修復とかがイメージしやすいかと思います。大規模な改築で新築に近いものが日本語の「一変」であるとします。これに対して中国語の「一変」というのは、外観の材質や色を変えたり、内装を模様替えするといったようなニュアンスです。
◆具体的にいうと、旧東京中央郵便局の外観だけを残して実質的に高層ビル化するのが日本語の「一変」であり、鳩山総務大臣や文化省が思い描いているのは重要文化財として保存する範囲内での改築が中国語の「一変」ということですかね。
さてさて閑話休題、前置きはこのくらいにして、「変」についての安岡師の解釈に話を移しましょう。
◆斉の国と魯の国との違いについて、安岡師は次のように記されています。
斉の国は丁度ソ連や中共のような権力と支配の、功利一辺倒の、彼等のよく言う所の帝国主義の国家であり、それに対して魯は文化国家である。
功利というものは行き詰まり易く、怨(おん)を結び易いものであるが、しかしそういう国でも一変すれば、本当の文化を求める様になる。但し文化というものは往々にして頽廃(たいはい)・堕落する。今日のアメリカやドイツを見ればよくわかる。だから、その弱点を救うためには一変しなければならない。そうすれば漸く本当の道に至ることができる。(「変について」より)
◆ここに引用した部分は、1969年(昭和44年)のものですから、文中の国名は当時のものです。ただ、社会主義国家ソ連(ソビエト連邦)が行き詰ってロシアに改まっても、中国が自由主義経済に移行しても、二つの国の根本的な部分は当時と代わり映えしていないと言えるでしょう。
◆また、「文化というものは往々にして頽廃(たいはい)・堕落する」として引用されているのは当時のアメリカとドイツですが、現代に在っては大半の国が同様の「頽廃(たいはい)・堕落」に直面していると言っても過言ではないでしょう。
◆現在の世界同時不況と言われる状況に至って、「CHANGE」を訴えたオバマ氏がアメリカ合衆国大統領に就任し、世界はアメリカ合衆国の動向に期待と注目を寄せています。そして、各国で景気対策を打ち出す動きになってはいますが、どの政策をみても「一たび変われば」の「変」とは違うものだと感じるのです。
◆赤字になっている金融機関や企業に税金を注入するというのは目先の危険を回避するための対応策、すなわち「応」であって「変」ではない、この状況を「一たび変われば」と期待できるような施策ではないと思うのです。「応」は置かれた状況に合わせるように「変わる」だけであって、状況が好転するのを待つようなものです。しかし、置かれている状況の根本部分を「変える」という姿勢があれば、自力で状況を改善することができます。
◆もちろん、景気対応策を講じることは必要ですが、今回の場合は対応策だけでは乗り切れないでしょう。現在直面しているのは単なる経済不安ではなく、アメリカ式自由主義経済の破綻であって、これを根本的に解決する改革が必要なのではないかと思うのです。
◆これまでの「功利一辺倒」のアメリカ主導の自由主義経済ではなく、産業構造そのものを改めた、新しい自由主義経済のモデルを構築しなければ、行き詰ったままの状態がき、その先には戦乱に至るしかないように思えるのです。
◆産業構造の改革に関しては、政治家さんや経済アナリストの一部に、1次産業の活性化を訴える人はいますが、これまた「変」には至らない論説が多く見受けられます。1次産業を基本に据えて、2次産業や3次産業をも刺激するようなプランが待望されているはずなのに、そして、それは難しいことでもないはずなのに、何故だか手を産業構造の改革を主張する人が現れない。
◆「功利というものは行き詰まり易く、怨(おん)を結び易いものである」というのはご存知であるだろうに、まだまだ「功利一辺倒」というスタンスを変えずにいたい経済人や政治家がいるのかもしれません。
◆そして、今回の経済危機が「功利一辺倒」の人たちにとってはピンチではあっても、安定した経済社会を再構築しようとする姿勢を持つ人たちにとってはチャンスなのです。こういう人が政治家の中にも経済人の中にも見当たらないというのは不幸なことで、世界で2番目の経済大国の地位から脱落するばかりか、没落した国家としての道をたどることになります。
◆『史記』に「倉りん満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」(貨殖伝)という言葉がありますが、これとは真逆の方向に向っているような気がします。今の日本社会というのは、政治家のやっていることは“喜劇”的ではありますが、下々の民にとっては“悲劇”的な結果を招くのでしょう。孔子の説く「道」は遠のくばかりです。
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